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聖十字架発見の記念  Festum Inventionis Ss. Crucis        記念日 5月 3日



 主の御死去後ユダヤ人等は、その聖十字架を二人の盗賊の磔刑柱と共に引き抜き、過ぎ越し祭の始まる時刻も近づいたことゆえ、大急ぎで之をゴルゴダの丘の東側にある坑の中に投げ込んだ。そしてその後もあらゆる手段を講じて、イエズスを偲ぶよすがとなるものは何一つ残すまいと努めたから、主の親戚朋友、御弟子達も、始終心にかけながらもその御血に染まった聖十字架を然るべき場所に移し祀ることが出来なかったのである。
その内にエルサレムはローマ軍の侵入を蒙って廃墟と化し、続いてローマ帝国全領土にわたる迫害が起こりなどして、いつか聖十字架の所在地すら定かには解らなくなってしまった。もっとも信者達は決してこの尊い主の御記念物を忘れた訳ではない。機会さえあれば是非発見したいと懸命に探し求めていたのであった。

 紀元326年ニケアに公会議が開かれるや、参集した司教達は主の御墓に程近い、主の御死去の場所であるゴルゴダを、聖地と崇めようとの決議をした。その丘はこれより先紀元135年に崩して平地とされ、異教の皇帝がキリスト信者の崇敬を妨げるべくそこにジュピターとヴィーナスの二神像を安置したが、その為かえって聖十字架の立ててあった地点が明らかになった。そしてコンスタンチノ大帝がキリスト信者に信教の自由を与え、その母聖女ヘレナが自らも主の御出生並びに御死去の地に巡礼してからは、この聖地は鄭重に保存されるようになったのである。

聖ヘレナはその巡礼において、まずベトレヘムを訪れて御降誕の当時を偲び、次ぎにエルサレムに赴いて御受難の地であるオリーブ山や、御死去の地であるゴルゴダや、その他主の行き給うた御跡を尋ねて杖を留め、我が子コンスタンチノや全国民の聖教に帰依せん事を熱心に祈り、それらの旧蹟にそれぞれ壮麗な聖堂を建築すべき事を命じた。
 彼女はまた主を慕うあまり、その釘付けられ給うた十字架も、ぜひ見たいという望みを、どうしても抑えることができなかった。その頃はゴルゴダの故地に立てられたかの二神像も、コンスタンチノ大帝の命により既に取り払われていたが、その付近一帯をヘレナは人手を下して発掘させてみた。すると、聖霊の御導きもあったのであろう、数日の後首尾よく三つの十字架を見出すことが出来たのであった。
 その中の一つの傍らには、あのピラトがつけさせたという「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス」と記した罪標がおかれてあった。ヘレナや司教マカリオは果たしてその十字架が主の磔り給うた物に相違ないかを確かめる為に、天主に証明の奇跡をお願いすることにした。即ち司教は大病の一婦人を連れて来させ、主の聖十字架によってその病を癒されん事を一同熱心に祈った末、その婦人を三つの十字架に順次触れさせた所、最後にかの罪標のあるものに触るや否や、彼女は即座に全快してしまったのである。
 今やイエズスが世を救わん為御死去になった聖十字架は明らかになった。並み居る人々が狂喜して天主に感謝を献げたことはいうまでもない。そして聖十字架は直ちに適当な所に移され、安置されたのであった。後にこの十字架の一部は有名な教会に分かち送られ、その極く小さい薄片は今世界の諸所方々にあるが、御受難の主の尊い記念として、いずれも均しく大切に保存されている。それは兎に角、聖ヘレナの聖十字架発見は全キリスト教会にとって大いなる喜びであった。さればこそ聖会は本日5月4日を以てその記念日とし、之を祝賀するのである。

教訓

 今やイエズスが御死去になった十字架は即ち我等全人類の贖罪の祭壇に他ならぬ。この十字架上にこそ全世界を贖う主の聖い御血は流されたのであった。各教会、各家庭にある十字架はこの聖十字架を偲ぶよすがである。されば我等は十字架を見る度に、少なくとも救い主の御死去に対する感謝報恩の心を起こし、天主の御摂理に快く服するよう心がけねばならぬ。